Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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樫村:とても面白い発表でまだ議論が尽きず、残念なのですが他の発表もあることなので次にいきたいと思います。それでは小井さんよろしくお願いします。
小井:この発表の目的は、日本におけるアイデンティティのあり方を分析することです。ここではロックという音楽文化が、日本に受容される過程で起こった一つの事例を取り上げることを通して考察します。そしてこの問題との関連において、グローバル化した世界における自己実現のあり方も考察していきたいと思います。プリントの二枚目を見て頂きたいと思います。二枚目の一番初めのパートも一枚目と同じことが書かれています。ただ同じ事例を取り上げてはいるのですが、評価の仕方が一枚目と二枚目では百八十度違います。
ここで取り上げる事例というのは、1971年に内田裕也とはっぴいえんどというロックバンド・グループとの間に起こった日本語ロック論争です。これは雑誌メディアを中心にして、70年から72年頃にかけて展開されました。ここで争われたのは、日本語ははたしてロックに乗るか否か、ということでした。内田裕也に代表される英語派の歌い手たちは、日本的なものの拒否、あるいは海外志向、アンチ商業主義という立場に立ち、本物のロックに近付くためには英語で歌われなければならないという信念がありました。この当時のロックはまだ受容されて間もない時期だったので、英語のコピーの曲というものが非常に多かった。日本語でオリジナルのロックを歌う、ということは日本のロックの世界では、異質なものとして排除されていた傾向がありました。英語派の歌い手たちは、ロックの持つ否定や反抗の精神を表現するためには、リズムを疎外する要因とされた日本語は不要であるとして、彼らは英語で歌うことを選択したのです。こうした時代にはっぴいえんどは「日本語のロック」というテーマを掲げて登場してきました。彼らはロックのリズムに、日本語をどう乗せるかということを技術的に考えました。彼らは語の区切り方を変えてみたり、日本語を英語的に母音と子音の組み合わせとして捉える、たとえば日本語の場合だと「ん」も一音節として、「見えたんです」というときには「み」「え」「た」「ん」「で」「す」というかたちで全て区切るわけです。演歌の場合だと「ん」をさらに強調したりもします。「見えたんです」を英語的に区切ると「mi-e-tan-de-su」というようにtanとして「ん」を含み込むことができる。日本語をこのように捉え直して、リズムと音と歌詞の意味を融合させようと試みました。彼らがこのように日本語を使うことにこだわったのは、日本という場にロックをどのように土着させるかという問題意識との関わりから、日本の聴衆を相手にするということに他の英語を使う海外志向のグループよりも意識的だったからです。
英語を使うグループと日本語を使うはっぴいえんどのようなグループの違いは、内田が本場のロックに自らのアイデンティティを同化させようとしたのに対し、はっぴいえんどは、むしろロックを日本の伝統の中に置き直すことによってアイデンティティを創出しようとした、というところにあるのではないかと思います。日本語ロック論争というのは、ロックというグローバルに展開する音楽文化に対して、ローカル側はどのような対応をするかという問題としても捉えられるのではないでしょうか。内田裕也ら英語の歌い手たちは、アメリカやイギリスで歌われているロックのステータスを獲得するために海外で成功しなければならない、という強い信念がありました。そのような海外志向に対し、はっぴいえんどは日本語を用いることで、ロックをローカルなコンテクストに配置しようとしました。これがロックというグローバルに展開する音楽文化に対する、ローカル側からの二つの相反する、対照的なアプローチです。
ローカル側の所与の条件というものは、新しい表現は常にグローバルに展開する文化の中から生まれ、それをどのように受容するかということだと思います。日本語で歌うことを選択したはっぴいえんどでさえ、ロックという音楽文化そのものを根本的に否定したわけではない、ということです。内田もはっぴいえんども、同じロックという音楽文化の共通の土壌の上で、その差異を競っているということだろうと思います。はっぴいえんどは日本の文化的コンテクストから脱埋め込みされ、つまり日本の伝統とアイデンティティが一体化していた状態から、伝統とアイデンティティが切り離されるという場所に置かれ、そこで一つの選択肢として日本語を選びました。日本語を使う、ということに新しい意味を付与することによって、ロックという音楽文化への完全な同化でも、その完全な拒絶でもない、統合でも反統合でもない、参加しつつ拒絶するようなそうした「半」統合の道を選択した、というふうに捉えていいのではないかと思います。これがこの一枚目のプリントで語られていることです。
一枚目でははっぴいえんどを評価する趣旨になっているのですが、二枚目では内田裕也が率いていたフラワー・トラウ゛ェリン・バンドが作った英語によるロック、というものをどう正当に評価できるか、ということをグローバル化の流れにある現在において、もう一度捉え直してみたいと思います。彼らは実際にカナダへ行って、レコーディングやライブを行い、本場のロックと関わりを持ちました。そのことを通して、自分たちのオリジナル性、独自性というものを一体どういうところに見出していくかという問題が、やはり彼らの前にも立ち現れてきます。彼らがそこで見出したのは、オリエンタルなサウンド、東洋的なものを音によって表現する、ということでした。そういうものが彼らにとっての「日本的なるものの表現だったのです。結局それは言葉の特殊性というものよるのではない、むしろ彼らが彼ら自身の文化を離れたときに勝負できるのは、どこでも通用するような普遍的なサウンドの力だったと思います。「日本語のロック」というテーマを掲げて登場してきたはっぴいえんどは、その日本文化へのロックの土着という問題意識から、日本語のもつ世界観というものを、ロックのリズムとサウンドに融合させるような方向をとっていましたが、内田のような立場から見れば、明らかな後退として捉えられます。日本語で歌われる限り一つの文化の枠組みの外へ出ることはないからです。
このような評価の立場からすると、音の普遍性というものに頼って海外へ進出した内田裕也率いるフラワー・トラウ゛ェリン・バンドと言語の特殊性のために一つの文化の領域にとどまらざるをえなかったはっぴいえんどでは、その問題意識と志向性において大きな違いがあります。日本語ロック論争において重要なことは、英語か日本語かといった問題ではなく、この音の普遍性と言語の特殊性の問題ではないかと思います。このどちらの立場に強調点を置くかによって、グローバルな文化とどのような関係をもつか、ということが決まってくるのではないかと思います。ここでは音の普遍性というものによってグローバルに展開する文化と開かれた関わりをした、フラワー・トラウ゛ェリン・バンドによって用いられたオリエンタルなサウンド、もとから土着のものとしてあった伝統的な音の表現というものこそが、グローバル化時代における自己実現のあり方を示しているのではないかと思います。そのため一枚目のプリントとは完全に異なる評価となっています。
はっぴいえんどは、埋め込まれた側、埋め込まれた場所に残って、どう自己実現するかという立場にたち、内田裕也は埋め込んだものの方にどうついていくか、というかたちで自己実現というものを考えました。際立ったかたちでの対照的な二つの自己実現のあり方を提出しましたが、このどちらの立場を選ぶかというのは結局、自己自身の選択、決断という意志によるものだろうと思います。どちらが正しいとか間違っているというかたちでは捉えられないものだろうと思います。これで発表を終わります。
樫村:何か質問はありますか。バージョンアップ版がついてより分かりやすくなっていると思います。
伏木:黙っていようかと思ったのですが、実は私は学部時代にポピュラー音楽研究をしていましてプロデューサー論を扱っていました。音楽は誰の作品なのか、つまり売られるレコードは誰の作品なのかということをめぐって基本的にはそれがプロデューサーの作品である、ということに行き着いた論文だったわけです。それを通して、ポピュラー音楽の研究を続けてきたので、そちらの方向から今回のこの発表について根本的な問題があると思うのでその点を先に指摘させて頂きたいと思います。まずこの発表にあたって、私が非常に問題だと思われるキーワードは以下の五点です。
まず一点目、「ロック」という言葉です。それから「日本語」です。この「日本語」は「言語」と置き換えても良いでしょう。その次に、これは半分無くてもいいと思うのですが「オリエンタル」という言葉。そして「サウンド」という言葉、そして最後に「音の普遍性」という言葉。これらは非常にこの論考を行うにあたって外せないキーワードになってくると思います。
 まず「ロック」というものが、まるであたかも現存するかのように述べられているこの研究にあたって、まず「ロック」というものの定義なくしては、この議論が成り立たない。ロックというものは、もともと欧米の中においてもさまざまな形態があって、どれをロックとするか、定義することすら難しい状況にあるものを日本の中に置いて一言で「ロック」と言ってまとめてしまうことにまず第一点の問題があります。ですからこの場合、ロックとは何かという定義が必要だし、まず日本においてロックがどのようなかたちで受容され、何がロックと認識されるのかを押さえる必要があります。
その次に日本語がロックに乗るかどうかという、日本語ロック論争の事例がありましたけれども、この点においては日本語が乗るか否かという問題ではなくて、歌を歌うという普遍的な行為の中において、自文化以外の歌を歌ってはたしてそれが自分を表現することになるのかという自己表現の問題としての言語問題があります。つまり自分が英語で歌うときには、必ずしも自分の自己を構成している世界観を表すものを歌いきれないのではないかという問題があると思います。日本語で歌うことが重要なのか否かという問題ではなくて、言語という問題の重要性があるために「日本語」という用語を挙げました。
その次に「オリエンタルな感覚」もしくは「オリエンタル」という言葉です。この「オリエンタル」というのはご承知の通り、西洋からみた西洋ではない、非西洋世界のことをいうわけですが、これを私たちがこのような文脈でいうとき、何を意味しているのか、そして何によってそれを表現しようとしているのかという押さえない限り、安易に使うべき言葉ではないと思われるわけですね。
そして音楽的な面からいうと「サウンド」という言葉も問題です。サウンドと言ったとき、そこには二つの含意があります。例えば、メロディー、それから和声づけといった音楽学的な音楽構造の問題。もう一つは、音響、構成された音響を意味することもあります。作られた楽譜に示される旋律や和声構造、といった音楽分析以外に、音響システムによって作品化されたときに起こりうる音楽の変化、鳴り響く音響としてのサウンドを意味する場合があります。それは、作品の色付け、主にミキシングを担当しているエンジニアによって、そしてそれを決定するプロデューサーによって作られるわけなのですが、このことによって作品の色、主張が変わってきます。つまり「サウンド」という言葉を言ったときにどちらの意味をとるかによって、音楽の本質が変わってしまうことになります。ですからここで「サウンド」と言ったとき、何をもって「サウンド」と言うのか、それを定義しなくてはいけない。
そして最後に一番問題としたいのは、「音の普遍性」と言う問題です。「音の普遍性」と言ったとき、例えばここでロックと言っている音楽が、世界に普遍的な要素を持つと思われているけれども、西洋の音楽理論にのっとった音楽なわけで、基本的にそれが世界に共通する音楽言語ではありません。各地域ごとに各々美学があって、各地域ごとの音楽文化というのは異なった価値体系を持っています。だからまずそれが普遍的ではない、ということです。そしてそれを普遍的であると考えて使っているにも関わらず、彼らはオリエンタルな視点として、日本の伝統的な音の響きを入れようと努力したわけですよね。ということは世界に共通しないかもしれない日本の音の価値というものを、ロックという音楽文化に付加したわけです。それは、はたして世界的にみて通用する共通言語なのか、そういった根本問題も含まれてきます。ですからこの「音の普遍性」という言葉は言わない方が、おそらくは良いのではないかと思うわけです。例えば日本の音の話でいえば、明治の初期に日本に初めてきた西洋の音楽学者や旅行者たちが、今日本ですごくもてはやされている東儀秀樹が弾いている篳篥の音を聴いて、この世にこれほどおぞましい音のする楽器はない、と言っています。それを今世界に持っていったときに、おぞましいと言われるかどうかはともかく、そういう価値観があるかもしれないということを考えると、音は普遍性を持たない、と思った方がいいと思います。そういう意味からいうと、この論考は、もうちょっと根本的なところから考え直す必要があるんじゃないかと私は思いました。すいません、長くなりました。
樫村:じゃあ五つ質問がでましたが…。
小井:言葉が確かに、「サウンド」や「音の普遍性」というかたちで非常に軽率に使ってしまったので、定義の問題が抜けていると思います。例えばロックをどう捉えるかということなのですが、これはアメリカで生まれてきました。そこでは既成の文化に対する若者の否定とか反抗の精神をあらわす音楽として捉えられました。これはヴェトナム戦争における反戦運動と結びついて政治的な運動として、あるいは一つの文化革新の運動としてアメリカにおけるロックはこうした意味を持っているだろうと思います。
ここから問題だと思うのですが、このような歴史的な背景、文脈から切り離されて日本にロックという音楽文化が受容されたときに、日本人はこの特異な音楽表現に対してどのようなかたちで最初に向き合ったかという問題があるだろうと思います。それが象徴的なかたちで現れたのがここで取り上げた日本語ロック論争だと思います。だから日本の土壌でロックを考える、ということとアメリカでロックを捉えるということには、グローバルに展開する文化の中から生じてきたロックと、それをローカル側がどのように受け止めるか、ということの違いとして、ロックを捉えていきたいと思います。
それと二番目が日本語の問題なのですが…。
能勢:いいですか、すみません。この発表から考えると先ほど伏木さんが指摘された問題が重要だと思うのですが、それに対して小井さんが今おっしゃったことというのは、例えばロックが音楽的に何かという定義(について、音楽学ではなく文化現象としてのロックを)言うならば、文化現象としてのロックの定義が必要だったのではないかと思います。小井さんがずっとこの論を組み立てている間に一緒に手伝ったので、今言うのはすごくひどいんですけど。本当にすみません。そのいきさつも含めてこの二枚のプリントの両方がすごく逃げ腰なのが気になります。ここに何かある、ということしか両方とも分からないのです。「半統合」というのも、あるいはもう一つの「音の普遍性」や「言語の特殊性」の問題もすごく大雑把に言っていると思うのですが、両方ともポイントが分からない。分からない、というか問題意識が分からない感じなので、ここに何かある、ということだけが分かるというふうに私には聞こえます。そして「音の普遍性」という言葉もすごく問題だと思うのですが、普遍というのはどこでも通用するという意味では無いと思います。それを文化的に定義したとしても。
永澤:ですからそれはロックの定義とサウンドの定義をどう行っているか、という二重の軸があって、それが一貫しているかどうかということで、発表においては今のところ一貫していません。最初に、文化現象ということで、政治的なメッセージ性の表現みたいな対抗文化、カウンターカルチャー的なことを言っていましたが、私は、それは違うと思います。ですが、仮にそう考えたとして、それは具体的に誰を念頭に置いているのですか。
小井:ビートルズですね。
永澤:それは違うと思います。ロックというのは「常識」として色々な定義が出てきていますけど、文化現象というか歴史的に見るなら、明らかにエルヴィス・プレスリーじゃないですか? 彼が訳の分からない、政治的なこととは一切本人は意識もせずに、全く関係なく変なことをやり出して爆発的に新しいといわれていたものがロックンロールなんじゃないですか? ですから歴史的な考察を入れないと全く無意味になると思うのですが、またオリエンタリズムを批判する上でもそれは絶対外せないのですけど、むしろそういった歴史的な研究をおやりになったほうが良いと思うのですがどうでしょうか。そしてその際、ビートルズから始めるのはどう考えてもおかしいと思います。
樫村:プレスリー以前に遡る議論もあるのですが、面白いのはロックというのは単に外側から枠付けている現実だけではなくて、まさにはっぴいえんど論争が当事者間論争であるように、音楽を演じている人たちが、我々がロッカーだというような自己言及的な概念なんですね。
永澤:まさに再帰的な話になっていて、外からは容易には見えないわけです。だから「ロック」を最初に取るということ自体がすでに誰かにとっては変なことであり得ます。選択の問題があります。
樫村:彼が定義してしまうと局所的な定義になるので、このように自分がロックだと言っているいろんなエージェンシーがいて、私はこれをこうとる、というようなやり方が一番いいと思います。
永澤:もちろん「エルヴィス・プレスリー」に関して先ほど言ったことは「私の意見」ではありません。ある一つのポピュラーな見方がそれだし、もちろんプレスリーの曲と、それ以前のもっと遡った黒人のブルースなどと共通のところとも「ロック」はつながっているわけです。
樫村:プレスリーは白人なのに黒人オリエンテッドな音楽をロックにしたもので、ロックはそういう意味では民族性をある種超越した普遍性を持っていると思います。今だといろんなジャンルを全て総括してロック、というときと個別のカテゴリーに並列したかたちでロックと言う場合があります。ですのでロックという言葉がすごく一人歩きしているので、ご批判通りだと思いますが、こうしたことを全く考えていないわけではなくて定義できなかったのではないかと思います。ただこのことを書いておかないとナイーブですよね。
伏木:自分で決められないことは悪いことではありません。決められない、自分の中ではスタンスが取れない、でもここで話を展開するにあたって、この段階ではこの意味でこの言葉を使っておくという前提が一つあれば、その前提に乗って皆が議論できるんじゃないかと思います。
永澤:そうですね。限定してプロデューサー装置としてのロック、というふうに割り切ることもできるわけじゃないですか。そうするとビートルズあたりから確かに、本人達が作っている部分があっても、プロデューサーがどんどん入ってきちゃうとか、そのようにどこかを切り取ってやってもいいでしょう。
小井:そうですね。議論の共通前提となるロックの定義というものが、できていなかったです。そのために皆さんにここで大変な混乱をもたらしてしまったと思います。
樫村:勿体ないですよね。せっかく一番面白い係争的な問題をやっていて、そこを取り扱わないというのは。何かおいしいところを抜かしているみたいで。
永澤:こうした問題とスピッツがどうつながっているのか、それに興味があります。
小井:スピッツとつながる問題としては、日本においてロックをするとはどういうことかという問題との関わりにおいてです。このような問題意識においてはグローバル化の問題は外せなくなってくるし、スピッツの場合でも、このはっぴいえんどと同じようにやはり日本人として日本語で歌わなければならないという考え方を共有しています。セックス・ピストルズでさえ伝統的な韻を踏んで歌っているのだから、伝統を踏まえないでロックをするということはあり得ないという問題意識がスピッツにはあります。だから日本語で歌う、ということは非常に重要であって、自分たちのアイデンティティというものをきちんと定位するという目的から、日本語で歌うことが根底的な基盤となります。このような視点から日本人とロックの関係を見ていきたいと思っています。
能勢:スピッツに関して、何故ロックを日本でやるかという仮説はありますか。
小井:それはたまたまそのような歴史的条件、生れ育った場所においてすでにロックという音楽文化が存在していた、ということだろうと思います。
能勢:そうすると全てがいきさつになってしまわないですか。
樫村:いきさつをできれば対象化したいですね。
辰田:私は能勢さんと同じ意見で、いきさつになっちゃってるなあと思います。こういうことがありました、これはこういうことですね、という。もうちょっと飛躍が欲しいと思っていまして…。
能勢:私は小井さんのものの見方がいきさつ的だと言っているのではなくて、スピッツがロックをしている理由は本当にいきさつなんだろうと思います。そのいきさつを言っています。
辰田:はい、最初に能勢さんが発言されたことで逃げ腰だっていうことに…。
能勢:それとは関係ないです。私は小井さんのものの見方とか、スピッツに関しての見方がいきさつ的だということではなくて、スピッツがロックをやっている理由はそこにあったから、といういきさつにあるというのは本当に現実的にそうなんだろうなあと私は思います。
辰田:分かりました。私の意見は、あなた自身の仮説を知りたいということと、あと自己表現ということにフォーカスを当ててくれたら楽しいだろうなあと思います。自己表現というのは、自己であるということと表現であるということがマッチしている評価の言葉なんですけど、自己であるということと、表現というのは、他者に伝わるということを同時可能にするロックというあり方を追求して欲しい感じです。今のままだと、このようなことがありました、それは半統合で、とか型にものをはめ込んでいるような感じで、もう少しエキサイティングにやって頂きたいと思います。
小井:分かりました。

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